2017年1月25日水曜日

振り返れば、いつもそこに「六甲山」my love.


神戸っ子をいつも見守ってくれている六甲山。春になると新緑が、そして秋になると紅葉が季節の移り変わりを告げる六甲山。夏、山頂に登るとひんやり涼しい六甲山。そして今、見上げると六甲山。きがつけばいつもそこに六甲山。

六甲山とは

六甲山は神戸市の市街地の西から北にかけて位置する山である。一般に六甲山は大小の山を含む六甲山系全域を指していて、最高峰は特に六甲山最高峰と称されている。
六甲山系の摩耶山「掬星台(きくせいだい)」から眺めるパノラマ夜景は日本三大夜景に数えられ、夜空の星はもちろんのこと、眼下に広がる神戸の街が宝石箱をひっくり返したように美しく輝き、見事な神戸1000万ドルの夜景を見ることができる。掬星台は標高約700mにあり、同じく日本三大夜景の函館山(334m)、稲佐山(333m)よりも高度があり、神戸市内のみならず、大阪や関西国際空港、西は明石方面まで一望できる。六甲山系ではもちろん、関西でも屈指の美しいパノラマ夜景だ。
 摩耶山という名は、弘法大師が釈迦の生母・摩耶夫人の像を祭ったことから付いたそうだ。また、掬星台という名の由来は、先人が満天の星空があまりにも美しく、「手を伸ばせば星が掬(すく)えるようだ」 と言ったところから来ている。

六甲山系の自然とその魅力

大阪湾に沿って、帯状に延びる神戸の街。その後に屏風を立てたように連なる六甲の山並み。阪神間の人にとって六甲は、手軽に登れるである。季節の移り変わりもよく分かる場所である。車窓からも、ビルの間からも、どこからでも間近に眺めることのできる山でもある。人々は「ろっこさん」と親しみを込めて呼んでいて、日々の生活や心の中に、いつも大きなウエイトを占めている。身近で親しみのある山だが、地形や地質、気象、植生などを見ると意外と特異な山であることが分かる。

六甲山の成り立ち

六甲連山は、東は武庫川西岸の宝塚から、西は須磨の鉢伏山の急斜面で瀬戸内海へ陥没するまでの長さ約30キロの山塊だ。山頂付近は厳しい風化で準平原化し標高は東が高く、西へ行くにつれて低くなっている。基盤は中生代末期に地下深くに作られた花崗岩で、200万年前の第4紀初期からはじまった六甲変動という地殻変動によって衝きあげられたものである。
1995年1月17日、兵庫県南部地震が発生し、阪神、淡路を中心に大きな被害がもたらされ、たくさんの命が奪われたことは記憶に新しいことだ。この地震で六甲山地でも多くの断層が動いて、各地で山崩れなどによる、地形の変化が起きた。このような大地震によって、断層の衝きあげの繰り返しでたかくなったといわれ、今回の地震では12センチ高くなった。このとき、北側で丸山衝上断層(国の天然記念物)、南側で芦屋などの衝上断層を作り、何度も大きな力で衝き上げられて、いまの六甲山が形成されたと考えられている。

登るための六甲山

六甲の山々が育てた「毎日登山」は神戸の誇りだ。ある日の朝7時過ぎ、神戸の市街地から六甲・再度山に通じる大師道を歩く。年配の男や女が大勢ゆるやかな坂道を下ってくるのに出会う。若い人は少なく、黙々と歩く人、楽しそうにおしゃべりをしながら、歩く人たちもいる。男女ともにリュックを背負って、山靴を履いている人は少ない。いわゆる山歩きのいでたちではないが、大師道をこの時間に下っているひとたちは、ほとんどが神戸名物の「毎日登山」の愛好者たちにちがいない。稲荷茶屋と燈籠茶屋も神戸らしい雰囲気で愛好者たちからも人気である。
 我が国へ「近代スポーツとしての登山」を伝えたのも、開港後、神戸へやってきた外国人である。なかでも、明治21年に神戸の英国教会の牧師として来日したW・ウェストンは、当時日本人自身にすら広く知られていなかった中部山岳地帯の山々を登り、その著書で「日本アルプス」を世界に紹介するなど、近代登山の普及に努めた。明治38年には、ウェストンの勧めで日本山岳会が結成され、神戸でも日本山岳会員の塚本永蕙達によって、明治43年、神戸草珪会が創立された。このような発展があって、今も多くの登山客がいることが分かる。



参考
ヤマケイ関西vol.1,2001 ハイキングのメッカ、近代登山発祥の地 六甲山
阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期―昭和15年の軌跡
取材:安武郁哉