2017年1月26日木曜日

バナナ最高!


いつもお世話になっているのに、よく考えてみればなにも知らないバナナ。
そんなバナナ!ということで、調べてみました。
さぁさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!




バナナはいつ日本にやって来た!?

地球でバナナが栽培されるようになったのは、紀元前5000年ごろ、パプアニューギニアあたりと言われています。2002年の現地調査で、バナナが存在していたと裏付ける痕跡が発見されました。また、東南アジアでも初期栽培が行われていたことを示す証拠が見つかっています。紀元前5000年といえば、古代エジプトが栄えていた頃。エジプトの王様は生のバナナはムリにしても干しバナナぐらい食べていたかもしれませんね。しかし、そう考えると、生のバナナをむしゃむしゃ食べることができる現代人って、確実にエジプトの王様以上の暮らしをしていますね、きっと。
 時は下って16世紀、沖縄でバナナが栽培されるようになったということです。


昔は、貴重すぎて病気した時しか食べられなかった

バナナが日本に初めて輸入されたのは1903年。台湾から神戸港にやってきた台湾バナナを保管したのが株式会社上組。以来、神戸港から荷揚げされるバナナの輸入取り扱いは上組が請け負うようになりました。
 戦時中、台湾バナナは米の生産を優先するために減少し、日本の果物屋さんから姿を消してしまいます。しかし、1950年に日本と台湾で通商協定が結ばれ、バナナは再び輸入されるようになりました。当時のバナナは1kg1000円と超高級食品でした。先生によれば、当時、バナナは病気で寝込んだ時にしか食べることができなかったそうです。
 その後、1961年に輸入船の船員からコレラ菌が検出され、一時、台湾のバナナは輸入禁止になるという災難も乗り越えて、1963年に日本政府がバナナの輸入を自由化し、バナナは一般化していきました。
 現在、日本でもバナナの栽培は行われていますがほとんどが輸入されています。2005年の輸入先を見ると、フィリピンが88.5%・エクアドルが8.5%・台湾が1.4%となっています。 

朝バナナ?夜バナナ?

朝食にバナナを1本か2本食べ、水を飲むことでバナナに含まれる豊富な酵素作用により、体内に溜め込んだ毒素をかき集め排出されるダイエット方法をバナナダイエットと言います。また、昼食と夕食は通常通り食べてよいという非常に簡単なので2008年にブームになり、果物屋さんやスーパーの店頭からバナナが消えたそうです(売れすぎて)。
 このダイエットブームはいくつかの理由ですぐに終わりを迎えてしまいます。理由の一つ目は、生バナナを食べなければいけないことです。焼きバナナや冷凍バナナは酵素が壊れてしまうため食べても意味がありません。二つ目は、カフェインと一緒に摂取してはいけないことです。カフェインは、ビタミンやミネラルを壊し、酵素の働きを低下させてしまいます。3つ目は、アレンジができないためバナナの味に飽きてしまいました。その結果、バナナダイエットブームはわずか数ヶ月で終わってしまいました。

 最近、バナナダイエットが再び注目されています。今度は夜にバナナを食べる方法です。夕食の約30分前にバナナ2本を食べてその後にお湯や緑茶を飲むというダイエット方法です(※夕食は普通に食べる。ただし、満腹に感じたところで止める)。バナナはカロリーが低い一方で、満腹感の得やすい食べ物で、ダイエットをサポートする栄養素も多く含まれているため、注目されています。このダイエット方法のポイントは「夜」であると言われています。

 中程度のバナナは、皮をむくと約100グラム。86カロリーで食物繊維も1.1グラムと比較的豊富です。昼に菓子パンを1個食べるなら、バナナ4本のほうが同じカロリーでも脂肪が少なく身体にはいいそうです。

昔バナナ・今バナナ

バナナの歴史を調べていくうちに現在と昔のバナナでは品種が違うことが分かりました。1960年代以前に食べられていたバナナは、グロ・ミシェルという種類のバナナでした。特徴は今よりももっと大きくて、甘く、皮が厚めであったと言われています。たいへん普及したグロ・ミシェルですが、パナマ病という殺菌剤が効かない病原菌に襲われ絶滅してしまいました。そして、現在では一般となっているバナナ、キャベンディッシュに総入れ替えが行われました。キャベンディッシュは種なしで茎を株分けして栽培することが唯一の生産方法です。また、キャベンディッシュはパナマ病にも強いと言われています。しかし、最近キャベンディッシュを襲う新型のパナマ病が現れました。殺菌をすることでパナマを死滅させることは可能です。しかし、欧米では消費されるキャベンディッシュは影響を受けやすく、広がりつつあります。このことから、科学者のなかにはキャベンディッシュが絶滅してしまうのではないかと心配する声もあるそうです。

バナナの食べごろ

見た目がきれいなバナナがおいしいと思っているひとが多いですが、いちばんおいしいのは付け根まで黄色になり、茶色い斑点がポツポツ全体に出たころが熟れて甘みが加わるからいちばんおいしい。またバナナは呼吸しているので、袋から出して冬なら新聞紙にくるんで発泡スチロールの箱に、夏は涼しい場所で保管するといいそうです。一度低温にさらされると甘みがのらなくなるので決して冷蔵庫に入れてはいけなそうです。
 

参考
バナナ大学
http://www.banana.co.jp/
「バナナの世界史」著者:ダン・コッペル 訳者:黒川由美 組版:アーティザンカンパニー株式会社
「バナナ入門」著作者:中村武久 出版社:丸善ライブラリー021
「バナナと日本人」著者:鶴見良行 出版社:岩波新書(黄版)199
「元気のひけつ 冷蔵庫での保存は厳禁 バナナの食べ頃と保存法 朝日新聞2011年2月19日 朝刊 

取材:森下 駿

2017年1月25日水曜日

振り返れば、いつもそこに「六甲山」my love.


神戸っ子をいつも見守ってくれている六甲山。春になると新緑が、そして秋になると紅葉が季節の移り変わりを告げる六甲山。夏、山頂に登るとひんやり涼しい六甲山。そして今、見上げると六甲山。きがつけばいつもそこに六甲山。

六甲山とは

六甲山は神戸市の市街地の西から北にかけて位置する山である。一般に六甲山は大小の山を含む六甲山系全域を指していて、最高峰は特に六甲山最高峰と称されている。
六甲山系の摩耶山「掬星台(きくせいだい)」から眺めるパノラマ夜景は日本三大夜景に数えられ、夜空の星はもちろんのこと、眼下に広がる神戸の街が宝石箱をひっくり返したように美しく輝き、見事な神戸1000万ドルの夜景を見ることができる。掬星台は標高約700mにあり、同じく日本三大夜景の函館山(334m)、稲佐山(333m)よりも高度があり、神戸市内のみならず、大阪や関西国際空港、西は明石方面まで一望できる。六甲山系ではもちろん、関西でも屈指の美しいパノラマ夜景だ。
 摩耶山という名は、弘法大師が釈迦の生母・摩耶夫人の像を祭ったことから付いたそうだ。また、掬星台という名の由来は、先人が満天の星空があまりにも美しく、「手を伸ばせば星が掬(すく)えるようだ」 と言ったところから来ている。

六甲山系の自然とその魅力

大阪湾に沿って、帯状に延びる神戸の街。その後に屏風を立てたように連なる六甲の山並み。阪神間の人にとって六甲は、手軽に登れるである。季節の移り変わりもよく分かる場所である。車窓からも、ビルの間からも、どこからでも間近に眺めることのできる山でもある。人々は「ろっこさん」と親しみを込めて呼んでいて、日々の生活や心の中に、いつも大きなウエイトを占めている。身近で親しみのある山だが、地形や地質、気象、植生などを見ると意外と特異な山であることが分かる。

六甲山の成り立ち

六甲連山は、東は武庫川西岸の宝塚から、西は須磨の鉢伏山の急斜面で瀬戸内海へ陥没するまでの長さ約30キロの山塊だ。山頂付近は厳しい風化で準平原化し標高は東が高く、西へ行くにつれて低くなっている。基盤は中生代末期に地下深くに作られた花崗岩で、200万年前の第4紀初期からはじまった六甲変動という地殻変動によって衝きあげられたものである。
1995年1月17日、兵庫県南部地震が発生し、阪神、淡路を中心に大きな被害がもたらされ、たくさんの命が奪われたことは記憶に新しいことだ。この地震で六甲山地でも多くの断層が動いて、各地で山崩れなどによる、地形の変化が起きた。このような大地震によって、断層の衝きあげの繰り返しでたかくなったといわれ、今回の地震では12センチ高くなった。このとき、北側で丸山衝上断層(国の天然記念物)、南側で芦屋などの衝上断層を作り、何度も大きな力で衝き上げられて、いまの六甲山が形成されたと考えられている。

登るための六甲山

六甲の山々が育てた「毎日登山」は神戸の誇りだ。ある日の朝7時過ぎ、神戸の市街地から六甲・再度山に通じる大師道を歩く。年配の男や女が大勢ゆるやかな坂道を下ってくるのに出会う。若い人は少なく、黙々と歩く人、楽しそうにおしゃべりをしながら、歩く人たちもいる。男女ともにリュックを背負って、山靴を履いている人は少ない。いわゆる山歩きのいでたちではないが、大師道をこの時間に下っているひとたちは、ほとんどが神戸名物の「毎日登山」の愛好者たちにちがいない。稲荷茶屋と燈籠茶屋も神戸らしい雰囲気で愛好者たちからも人気である。
 我が国へ「近代スポーツとしての登山」を伝えたのも、開港後、神戸へやってきた外国人である。なかでも、明治21年に神戸の英国教会の牧師として来日したW・ウェストンは、当時日本人自身にすら広く知られていなかった中部山岳地帯の山々を登り、その著書で「日本アルプス」を世界に紹介するなど、近代登山の普及に努めた。明治38年には、ウェストンの勧めで日本山岳会が結成され、神戸でも日本山岳会員の塚本永蕙達によって、明治43年、神戸草珪会が創立された。このような発展があって、今も多くの登山客がいることが分かる。



参考
ヤマケイ関西vol.1,2001 ハイキングのメッカ、近代登山発祥の地 六甲山
阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期―昭和15年の軌跡
取材:安武郁哉

2017年1月24日火曜日

KIITOの建物は神戸のレガシー


みなさんは、KIITOを知っていますか?
デザイン・クリエイティブセンター神戸のことです。「みんながクリエイティブになる。そんな時代の中心になる」とか「ひと、まち、せかいの、センターになる」と、ワクワクドキドキ感満載の、よくわからない、けど、楽しい!みたいなところです。今日は、そのKIITOの建物についてレポートします。


 
館内にはいろいろな展示があってたのしい!

モダン神戸を象徴する歴史的建造物があちこちに

KIITOができたのは2012年8月からと、つい最近の話ですが、この建物はなんと、1927年に、神戸市立生糸検査所として作られました。
1927年に輸出生糸の検査を行う施設として建設され、1932年にこの建物のとなりに建設された同検査所新館と合わせて戦前期日本の近代建築として、また近代神戸の発展を象徴して、建築史上高い価値を得ています。この界隈にはこの建物だけでなく、神戸税関や、三菱倉庫、三井倉庫、川西倉庫などの建造物とともに、昭和初期に国際貿易港として躍進した神戸港の近代化遺産が並び立つ、地味ながらもとってもレガシーな場所。またこのエリアは近代神戸発祥の地と言える旧居留地地区に隣接していて、神戸市民にとっても、神戸を訪れる観光客にとっても、神戸の歴史が肌で感じられる場所です。

明治時代の日本の先端産業「生糸」

ところで、KIITOというネーミングの元にもなっている「生糸」。「生糸検査所?」ナニそれ??ですが、いったいなんなんでしょう。
 自動車や家電製品、マンガにポケモンと、今日、多少の陰りはあるけれども、世界に冠たるものづくり大国として立派に成長した日本ですが、それはここ2〜30年前からのハナシ。世界に向けて国を開いた(いや開かされた)ものの、なんとか西欧列強と肩を並べるべく必死だったニッポン。海外からやってくる上等舶来ものにうっとりびっくりするばっか。海外に向けて「どんなもんだい!」と胸を張れる製品はさほど多くはありませんでした。そう、そこで生糸が登場です。「ニッポンの絹糸はどうやらよろしおまっせ」そんな噂が海外から偏西風に乗ってやってきた。そこで、時の政府は生糸を最重要輸出産物と位置づけ、品質向上を目指したのです。そして、横浜と神戸に生糸検査所が置かれ、1905年にはイタリアを、1909年には中国のそれを上回り、世界最大の生糸輸出国としての地位を確立しました!だから、20世紀しょっぱなのニッポンにとって、生糸の製造やら輸出やらは先端産業だった。
 生糸の輸出は当初ほとんどが横浜港経由でしたが、大正期に入ると関西生糸市場が盛んになり、さらに1923年の関東大震災により横浜港の機能が麻痺状態になったため、神戸における生糸取引、輸出業務に対する期待が高まり、全国の製糸業者は生糸検査所の設置を神戸市に要請。神戸市立生糸検査所が誕生したのです。





蚕の頭部がテラコッタ!?ナンテコッタ!

神戸市立生糸検査所は、鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建てで、神戸港における生糸の輸出量と将来の増加を考慮して建築面積は2369平方メートルと、けっこう大きな建物です。オフィスビルとしての機能性を保持しながら、外観が単調に流れることのないよう、ファサード(主要立面)をゴシック調(12~15世紀の西ヨーロッパの建築)にまとめ上げたものといえます。すなわち、ファサードの9つの柱間をすべて連続する腰高の窓とし、その窓面を壁面から後退させずにほぼ同一とすることで採光を確保しています。この壁面に太さの異なる2種のマリオン(細い方立て)をリズミカルに付加することでゴシック調の雰囲気をまとわせ、さらに中央玄関の両端で4層を貫いてさらに上方に伸びる八角形断面の柱とし、尖頭アーチやテラコッタ(焼き物)装飾を組み合わせるなど、装飾的要素を玄関周辺に集中させることで建物に格式を与え、全体を垂直線を強調する特徴をもつチューダー・ゴシック様式(イギリスの国会議事堂など)でまとめられています…。と、よくわかりませんが、とにかく、おしゃれっ!昨日今日できた建物など、この建物に比べると小便小僧みたいなもんです。
 このテラコッタ(焼き物)装飾は、魔除けではありません。黄金の生糸を吐き出す蚕の頭部を模していると伝えられています。この建物にゴシック様式が採用されたのは、神戸の玄関口たる神戸港の施設としての、加えて日本の輸出額の首座を誇る生糸の高品質を保証する機関の施設としての威厳を与えようとする意図があったらしい。神戸税関と対面する場所にこの検査所が建ったことで木造平屋の港湾倉庫が並ぶ中に新築庁舎が対峙するという、新港地区にふさわしい壮観を呈することになりました。
 ちなみに、旧神戸市立生糸検査所の新築が企図された大正末期の日本の建築界では、ゼツェシオン(分離派)と呼ばれる19 世紀末のドイツ、オーストリアに発する様式が流行していました。対面する神戸税関には、この要素が強いです。

ホンモノの神戸を知るオシャレさんは倉庫街をうろつく

神戸市が行った神戸のイメージ調査によると、「港」が最も高く、次いで「異国情緒」、「おしゃれなファッション」「六甲の山と緑」と続きます。「ミナト・コウベ」のイメージは今でも健在であるのにそのイメージを支える実際の景観は今やほとんど失われようとしています。唯一残っているのがこの新港地区なのです。そしてこの新港地区を歴史的価値の高い場所として支えているのが、旧神戸市立生糸検査所・旧神戸市立生糸検査所新館(両方合わせて今のKIITO)と神戸市税関の建築です。三宮からフラワーロードをずんずん下ったところにあるKIITO。おしゃれなカフェもあるので、ぜひ行ってみよう!



生糸に関する展示も
会議室ではみんなで服を作ってる?
KIITOで実施したいろいろなプロジェクトを説明してもらった



参考 https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20090217.pdf
取材:藤本 崇司



2017年1月12日木曜日

2017年1月11日水曜日

知っとぉ〜?噂のKIITO!



これがKIITOのある元神戸市立生糸検査所のビルだ。



「三宮からずんずん海のほうに行ったらおもしろいところがある」と連れていかれたKIITO。なにそれ???状態から最後まで抜けきれずアップアップの取材となりました!!

2号線をまたぐ立橋には意味深な看板が
1920年代に作られたキュビズム建築風
中はこんなに広い。探検のしがいありあり。
意味不明な機械のあるカフェ

建物の紹介はこれぐらいにして.....
問題のKIITOだが

まず「KIITOデザインクリエイティブセンター神戸」とはなにか。ホームページを見るとこのように書いてある。




神戸で暮らす人や働く人。子どもや、若者や、大人たち。
そんなすべての人が集まり、話し、つぎつぎに何かを生みだしていく場所。
それがデザイン・クリエイティブセンター神戸です。
一部のアーティストやデザイナーだけでなく、
さまざまな人や世代が交流し、そこから生まれるアイデアや工夫で新しい神戸をつくっていく。
その「実践」が積み重なれば、じぶんの街への愛着が増し、街そのものにも個性が生まれ、やがては神戸の経済もより元気になっていく。
人がクリエイティブになること。街がクリエイティブになること。
この場所が、そのための中心地となること。
近い将来、日本や世界のまちづくりのお手本になるために、神戸三宮の地で、かつてない試みが動き出します。





う~ん。クリエイティブ?創造??みんなが???

 ナゾは深まるばかりだ。センセーに聞いてみた。
「そうだな、クリエイティブというのは『創造』、つまり『なにか新しいものを創る』という意味だよ。キミら『そんなかっちょええことでけへん』と思ってるだろぅ?それは違うんだよ。ほんとうは人間誰もがもともとはクリエイティブな資質を持っている。なのになぜいつのまにかそれが削ぎ落とされるのか。学校の図工の授業とかで悪い成績つけられたり、ひとにけなされたりして、苦手意識を刷り込まれてついには『ムリムリ』となってしまうんだ。KIITOにはいろいろな人が集まってくる。そういうひとたちとブレーンストーミングとかで対話をするうちに、『クリエイティブなんかしりましぇ~ん』とか『デザインってなんすかそれ~』とか言ってたひとたちでも、気がつきゃクリエイターになってるという」
なるほど。クリエイティブとかデザインとか、そんなカッチョいいのは誰か他のひとがするもの、と考えていたけれど、そうじゃないんだと。その気になったら誰でもできるんだと。その気にさせてくれるのがKIITOか!KIITOには4つの活動方針を読めばナルホドそういうことじゃんか。

 +クリエイティブの実践の場をつくる。
 +クリエイティブの担い手をつくる。
 +クリエイティブの交流の場をつくる。
 +クリエイティブな情報発信とネットワークを広げる。

 とまあ、そこまではわかったところでだ、いったいなにをクリエイティブしたりデザインしたりするんだよ。
「ちょっとわかってないと思うけど、しゃれおつな服作ったり、広告作ったりするのが『クリエィティブ』とか『デザイン』じゃないよ。KIITOが手がけているのは主に神戸市が抱えている社会的な課題。それを老若男女いろいろな世代のひとたちが集まって対話して課題を解決するための案を企画していく。そういうことをやってるみたいだねぇ」



ふ~ん。で具体的にはどんなことをやってるんだろう。ちょっと調べてみるとこういうのがあった。

「LIFE IS CREATIVE 展 高齢社会における、人生のつくりかた」
LIFE IS CREATIVE 展というのは、「高齢社会を迎えている現代において、これまでの「老後」のイメージにとらわれない多様な『高齢社会における、人生のつくり方』を見出すための展覧会」のことである。高齢化にともなって出てくるいろいろな社会問題を掘り起こして、それに向けての対策を創造的に考えるということか。イベントには、「公園ラボ」「終活ラボ」「食ラボ」「恋愛ラボ」などがある。公園ラボとは、高齢者に健康な身体づくりをしてもらうための活動。公園遊具メーカーが開発した公園設置用の健康器具を会場において、「公園×シニア×健康の未来を描こう」をテーマに展示したそうだ。終活ラボとは、「残りの人生を充実させること」をテーマに話し合うイベントだ。次に食ラボとは、「食」を通したコミュニケーションや生きがいについて考える。この取り組みは素敵なイベントだと思った。高齢者の方がただ単に家で過ごすよりか、こういった場でみんなでアイデアを出し合い自分らで考えた料理を作っていくと、ネットワークもできるし、生きがいも感じられるし、人生を楽しむためにはもってこいのイベントだと思う。そして恋愛ラボとは、「恋愛」をテーマに、シニア世代の恋愛観のリサーチを行い、自分磨きとしてのおしゃれについて考えるための活動だ。

と、調べてみるといろいろとおもしろそうだ。けれど、まだよく分からないことがある。センセーは言う。

「成熟した社会の中で、市民は『施される』存在に甘んじていていいのか。自分たちが市民社会の主人公なんだから、社会の問題は人まかせにせず自分たちで考えて打開していく。そういうことに携わっていくことで、いままでお付き合いしたことのないような人たちと知り合って語り合う中で自分自身の視野が広がり、思考が柔らかくなっていく。それって素晴らしいことだと思うけどね。ただ、最近の学生って授業時間外はバイトばっかしていて、せっかくこういう機会があるのに見向きもしない。残念だねぇ。だからといって首に縄つけて引っ張ってくることもできないしねぇ」

確かに!すいません!そろそろバイト行かないと...







取材協力:デザインクリエイティブセンター神戸
取材:山根 創太


2017年1月10日火曜日

神戸スイーツの老舗

 女の子なら誰しも甘いスイーツが好きなのではないかと思います。最近ではスイーツ系男子という言葉ができるくらい、男女問わず親しまれているスイーツ。そしてスイーツといえば神戸というイメージも強いのではないでしょうか。神戸にはおしゃれでおいしい洋菓子がたくさんあります。洋菓子の本場といわれるほどです。今回はそんな神戸スイーツについてレポートします。

神戸スイーツの歴史

江戸時代、1868年神戸港が開港したことにより西洋文化が伝わりました。その時に外国の文化や物はもちろんのこと、洋菓子職人やバター、ミルクの元になる牛なども輸入されました。
明治以前、お菓子といえばカステラやこんぺいとうなど輸入菓子が大半でしたが、明治時代になると輸入品へ税金がかかるようになったため、自分たちで洋菓子を作るようになりました。それが神戸スイーツの始まりです。

神戸の老舗スイーツ

ユーハイム
株式会社ユーハイムHPより

 ドイツの菓子職人のカール・ユーハイム夫妻により創業されました。ユーハイム夫妻は関東大震災で被災し神戸に来ました。
第一次世界大戦のころ日本軍により占領されていた中国の青島で、菓子&喫茶店を開業した1909年から数えると約100年もの歴史があります。創業以来、食品添加物は使わずに材料の自然味を大切にしているのが特徴です。日本で初めてバウムクーヘン製造販売を行いました。


ゴンチャロフ
ゴンチャロフ製菓株式会社HPより

 ロシアの菓子職人のマカロン・ゴンチャロフにより神戸の北野町で1923年に創業されました。ゴンチャロフはロシア革命の時期に亡命し神戸に来ました。日本で初めてファンシーチョコレート、ウィスキーボンボンの製造販売を行いました。当時板チョコしか食べたことのない人々はその味に驚いたといわれています。帝政ロシア貴族の味は今も受け継がれています。

モロゾフ
モロゾフ株式会社HPより


 大正時代、亡命し神戸にやってきたロシアの菓子職人フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ一家が神戸でチョコレートとキャンディをメインに製造販売を始めました。
 1932年には日本で初めてバレンタインチョコレートを販売し、その文化を日本に広めました。チョコレートやキャンディだけでなくチーズケーキもポピュラーなものにし、チーズケーキブームを仕掛けました。また、神戸のどの家にもモロゾフのプリンの入っているガラススコップがあるのではないかといわれるほどプリンも有名です。「ロマンのあるスイート」をテーマにしています。


神戸発祥のスイーツには深い歴史があり、今もなおその味やこだわり、技術を受け継いでいることがとても素敵だと思いました。
お手軽な値段で買い求めることができることも魅力の一つだと思います。私は神戸にいますが、まだどの名店のお菓子も食べたことがないので食べてみたいとです。そしてまだ食べたことがない人にも食べて欲しいと思うくらい神戸のスイーツは全国に誇れるものだなと思いました。

参考文献 KOBE洋菓子物語 村上和子 神戸新聞総合出版センター 1997年5月30日 第一刷発行


取材:周藤明黎

神戸の城

おしゃれ神戸に城なんかあるの?あるある!!ということで神戸にあったお城について調べました。

摩耶合戦で幕府軍を打ち破った城 

城跡にある公園(神戸市のホームページより)

<摩耶山城>(神戸市灘区摩耶山、摩耶ケーブル「星の駅」より徒歩10分)
 神戸市灘区の摩耶山にある城。『太平記』には、摩耶合戦の項があり、元弘三年に赤松円心則村(赤松則村)が、鎌倉幕府軍討伐のため兵を摂津に進めた。その時に、摩耶山に城を築いたとされている。標高500mの山城で石垣、土塁、郭、堀が残されている。


天然の地形を利用した難攻不落の城 

 神戸市のホームページより 
<滝山城>(神戸市中央区城山、神戸市営地下鉄 新神戸駅/阪神高速 神戸線 京橋)
 神戸市中央区にある城。元弘三年、赤松円心則村が京都の六波羅軍を破ったのちに、こもった城である。滝山城は自然の地形を利用した城で、城の東側が断崖絶壁となっており非常に攻めにくいと言われている。また、敵に攻められた時だけに利用した城である。この城の最後は、天正七年、天下統一を目指す織田信長に攻められ落城したことで運命を終えている。


織田信長の武将、荒木一族の最後となった城

 神戸市のホームページより 
<花隈城>(JR西日本、阪神電鉄元町駅徒歩5分; 阪急神戸高速線花隈駅徒歩2 分、神戸市営地下鉄県庁前駅徒歩7分)
 神戸市中央花隈町にある城。石垣が多く使われた平山城であったとされている。いつ築城されたのかははっきりしていないが、織田信長が家臣の荒木村重に築かせたと言われている。東南は高さ12.6mの切り立った崖で守り、北も7.2mの崖になっていた。武家屋敷も城下町も天然の谷とも言える堀で囲んでおり、実践向きの城であったとされている。天正六年に荒木村重が謀反を起こしたため、織田信長の家臣、池田恒興に攻められ、花隈城は落城した。


天然の堀を形成した、「海城」

 神戸市のホームページより 
<兵庫城>(神戸市営地下鉄 海岸線 中央市場前駅 徒歩約3分)
 神戸市兵庫区中之島にある城。池田恒興が荒木村重の支城だった花隈城を攻め落とした功績をたたえられ西摂のほとんどの領地を信長からもらう。その時に、花隈城を取り壊し、その石を利用して恒興が築いたとされている。湊川の支流が天然の堀を形成し、前面に港をもつ「海城」を防御の拠点に整備されたと思われる。しかし恒興はわずか二年の在城で美濃国(岐阜県)に移され、兵庫は豊臣秀吉の直轄地となった。城として機能したのはたった二年と言われている。明治七年に兵庫港が大改修され、兵庫新川運河が造られたため兵庫城跡はほとんど破壊されて運河の下に沈んだ。

終わりに

神戸には、姫路市の姫路城や明石市の明石城のような天守閣を持つような城はない。しかし神戸の城は、歴史上重要な役割を果たしてきたということが調べて分かった。


参考文献
「ひょうごの城」新版(編著者:橘川真一 角田誠、発行者:岡部信夫、発行所:神戸新聞総合出版センター)
兵庫県神戸市のお城一覧(城郭放浪記)(http://www.hb.pei.jp/shiro/hyogo/?c=kobe)
市民のグラフこうべ(http://www.graphkobe.jp/list.html)

取材:森下 駿

どうして須磨海浜水族「園」?

 
 須磨海浜水族園は、「水族館」ではなく「水族園」という名前が付けられているのはどうしてなのか???ちょっとそれが気になって行ってきました、夜の水族園。

 須磨海浜水族園のHPでは下記のように紹介されています。

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自然環境の中で水族たちがどのように生きているのかを理解していただけるよう"生きざま展示"を基本的なコンセプトとしています。また各施設をそれぞれ独立させることにより、好きな展示館に自由に出入りしたり、時には自然の緑の中で憩いを感じたりと、「館」ではなく「公"園"」感覚でお楽しみいただけるようなつくりになっています。
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 それでは、どのような動物や展示館やあるのでしょうか。

世界初!波の大水槽

エントランスホールと波の大水槽

まずは、須磨海浜水族園の入り口に入ると天井の高い広々としたエントランスホールがあり、その奥には波の大水槽があります。この水槽のなにが世界初かというと、横から見ることができる人工波だそうです。そして、この大きな水槽のガラス面の清掃で活躍する「水中ロボット」も世界初だそうです。さらに、日本最大の屋内水槽で、水量が1,200tもあります。外洋性サメなど約40種、迫力のあるシロワニや、群れて行動するアジやイワシ、優雅に泳ぐエイなど、1万尾の魚が泳いでいます。


冬にはコタツに入って鑑賞もできる


魚だけではない!無せきつい動物水槽


須磨海浜水族園では魚だけではなく、タコ、イカ、巻貝などの軟体動物、世界最大のカニといわれるタカアシガニなど節足動物、そして、カンブリア紀に誕生した古生代の海から進化しながら生き続ける多細胞生物まで、約50種類の無せきつい動物を展示しています。

タコ

タカアシガニ


夜の水族園
 須磨海浜水族園では、冬になると夜間限定でイルミネーション催事「神戸須磨アクアイルミナージュ」を開催しています。夜の水族園にイルミネーション約300万球を配置し、お昼の水族園とはまた一味違った、幻想的な夜の水族園が楽しめます。さらに、最近話題のプロジェクションマッピングとコラボレーションした「イルカナイトライブ」も公演しています。

 まさに、「公園」感覚で楽しめる須磨海浜水族園、大学の行き帰り目が離せません!

~~~~~~~~~~~~~~~おまけコーナー~~~~~~~~~~~~~~~
須磨海浜水族園の目の前に広がる瀬戸内海ではどんな美味しいものがとれるのかな?

泳ぎが得意!イカ
 須磨海浜水族園でも飼育されている、刺身やお寿司のネタでもおなじみのイカは海水浴場として有名な須磨海岸でも泳いでいる姿を見ることができます。それも、海水浴シーズンの夏に多くみられます。動物界では多少の違いがあっても、体は頭の下に胴、その胴に手足がついているのが原則となっていますが、軟体動物のイカやタコは胴、頭、足という順番についています。人間でいうと頭の下に足がついているというとても面白い体の作りになっています。そして、イカの種類に「コウイカ」というイカがいます。コウイカはアオリイカやヤリイカなどと違い遊泳することがあまりありません。須磨海浜水族園でも見ることができますが、普段は底でじっとしたままで、体色も砂に似ているため観覧車の中には気づかない人もいるそうです。じっとしているのは昼寝をしているのではなく、えさが近づいているのを待っています。このえさをとる瞬間に体色がさっと変化するところが見所です。

神戸の名産!イカナゴのくぎ煮
 春になると必ずと言っていいほどそここからイカナゴのくぎ煮をつくる香ばしいにおいがただよってくるのは、瀬戸内に面した兵庫県民あるあるなのでしょうか。ご飯のお供、イカナゴのくぎ煮のイカナゴは北海道から九州の沿岸まで分布しています。それだけに地方名も多く、北海道、東京、東海、富山、などではコウナゴ、九州、中国地方ではカナギやアブラウオなどと呼ばれています。明石近海では一年魚をコナ(シンコ)、二年魚をフルセと呼び、区別しています。寿命は瀬戸内海では2~3年、北海道では6年以上で、瀬戸内海で育ったイカナゴは14センチほどですが、北海道では25センチほどに成長します。
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参考:須磨海浜水族園HP http://sumasui.jp/
     グラフ神戸177号
     「せとうち百魚百話 瀬戸内海のゆかいな魚たち」神戸市立須磨海浜水族園・編   
取材:織田悠花

オバマさんも味わった「Kobe beef」


神戸最古の日本人経営の牛肉店のひとつ 

 神戸牛はあのオバマ大統領も味わったという世界に通用するブランドです。な・の・に、神戸に住んでいながら食べたことのない私。いつか、食べる時が訪れたときのために、神戸ビーフについて調べました。


神戸牛とは?

神戸市ホームページより引用


 神戸牛とは神戸地方で肥育された肉用牛のこと。黒毛和種に属する但馬牛を農厚飼料で特別に飼育しています。肉の筋繊維の間に脂肪が混ざり、いわゆる霜降り肉になります。そのため、高級和牛肉として出荷されています。
 神戸牛の素牛である「但馬牛」は、約1200年前の「続日本書紀」に その名が登場するほど歴史が古い牛です。食用と言うよりは 田畑を耕したり荷車を引っ張ったりする「使役牛」としての 役割がほとんどだったようです。
 時は慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)、 日本で初めての 貿易港として神戸港が開港されました。
 開港前は牛肉を食べる習慣がなかったため、牛を解体する施設がなかった神戸で当時使役牛だった但馬牛をイギリス人が解体し、 販売したのが神戸牛の普及する始まりと言われています。
神戸牛の美味しさの秘密
 美味しさの秘密は3つの要素がある。1つめは融点の低いサシ(脂肪分)がとくに細かく筋肉の中に入り込んでいる霜降りであること。2つ目には赤身の肉繊維がきめ細かく、上品な甘みがあることが挙げられます。最後の秘密は、脂肪の風味の決め手であるオレイン酸やうまみ成分のイノシン酸を豊富に含んでいることです。
 このように、神戸牛には科学分析に基づいていることが分かりました。


神戸牛を食べる


 神戸牛について調べていくうちに、「食べたい!」と思い、手軽に神戸牛を食べられるお店に行きました。

そのお店は、本神戸肉 森谷商店さんです。元町駅から1分ほど海側に歩くとある創業明治6年の神戸牛の老舗の精肉店です。店頭で販売しているコロッケなどを買い求めるお客さんでいつ行っても行列ができています。毎日2000個、多い日は3000個のコロッケが売れるそうです。
 私も並んでコロッケを食べました。初めてではなかったですが、いつ食べても変わらない味で何個でも食べられると思うくらい美味しかったです。
 コロッケ90円

神戸ビーフ指定登録店

 

 神戸の街を歩いていると、神戸牛が食べられる店に牛が描かれたブロンズ像の看板を見かけます。今まで、なぜ分かりやすい所に置いているのだろうと疑問に思っていました。そこで今回の機会に調べてみました。

 約10年前神戸ビーフはどこで食べられるのか、買えるのか、といった声が多かったそうです。そこで、神戸肉流通推進協議会では、平成19年に地域団体商標登録を行い、繁殖農家を含む生産農家から販売先まで、すべて指定登録制にしました。卸売店、小売店、飲食店では、店頭での会員証・指定証・ブロンズ像を掲示しています。
これらは本物の神戸ビーフを扱っているという証になっています。

まとめ

 神戸に住んでいますがあまり神戸牛を食べる機会はありません。そのため、コロッケのような手軽に神戸牛を味わえるのはとても良いと思いました。観光客も多く、神戸の魅力がもっと広がっていけばいいなと思いました。


参考文献
出典:旭屋(http://www.asahiya-beef.com/trivia.html)
出典:本神戸肉森本商店(http://www.moriya-kobe.co.jp/)
出典:神戸ビーフ・神戸肉流通推進協議会(http://www.kobe-niku.jp/contents/about/definition.html)
画像:( http://www.1129tamaya.com/contents/2014/02/post-5.php)

取材 松井千紘


デザインで見るモダン神戸

 なにか面白い題材はないかと探すために、図書館で”神戸レトロコレクションの旅(石戸信也)”という本を見つけました。その本の中で紹介されていた絵に私は目が止まりました。その絵は現代にはないレトロなデザインが素敵だったので紹介していきたいと思います。

「兵庫県舞子公園」


 絵葉書で現在の舞子の公園の一部分です。今でも訪れることができるような場所がこのようにデザインされて絵葉書になっていると思うと面白いとおもいました。実際に訪れて比較してみるともっと面白いかもしれないですね。

「商標ラベル」

フィンドレー・リチャードソン商会(洋紙・織物・保険)がデザインしたものです。日本らしい大きな鯉のぼりの絵の中には英字が書かれています。和洋折衷なデザインがとても目を引き良いと思いました。外国の会社がこのように日本のデザインを使用することで、外国にはない珍しさから魅了されて購入するということもあったのではないかと推測できます。

「商標ラベル」

ハイン・ブロケルマン商会(窓ガラス・洋反物類輸入など)がデザインしたものです。当時の服装や髪型や地形など様々なことがこの一枚から読み取れると感じました。日本のデザインではありますが、どこか中華風なイラストで不思議な和を感じられます。このイラストから外国から見た日本は、中国と見分けがつかず、一緒くたになっていたのだろうと推測できます。


「第3回みなとの祭りポスター」 

「みなとの祭」のポスターの作者は第1回・第2回は小磯良平さんで、第3回は市民の応募でした。英字が使用されているにも関わらず、右から文字が書かれているところから今と昔が入り交ざっている時代であることがわかります。(昭和10年)小磯良平さんは神戸と関わりの深い画家で、西洋画のみならず、このように地元神戸のデザインも手がけていることから地元への愛も多かったのだろうと思います。


「マッチラベル」




 神戸は明治時代の頃はマッチ工業の街でした。明治10年(1877)神戸ではマッチの製造が始まり、明治13年の滝川弁三の清燧社をはじめ幾多の会社が生まれました。明治20年代後半には日本最大の生産量を誇っていました。神戸在住の麦少彭や呉錦堂など在神華僑(神戸に在住の中国人とその子孫のこと)の活躍でアジア各地に輸出され、大正期まで神戸の輸出を支えました。それらのマッチラベル(燐票)のデザインは多岐にわたって美しく、船・風景・人物・動植物・家具や生活用品まで収集家の集める無限の世界があります。国内の日常生活用でも商店など多くの広告宣伝マッチが作られ。
神戸の古くからあるお店には今でも広告宣伝用マッチが置いてあるような気がします。これも神戸がマッチ工業の街だった名残りなのかなと感じました。

「ウィルキンソン・レモンのラベル」


「ンモレ。ンソンキルヰウ」そうこれは今コンビニやスーパーなどで見かける「ウイルキンソン」の前身です。
1889(明治22)年ころ、英国人ジョン・クリフォード・ウィルキンソンは、宝塚の山中で炭酸鉱泉を発見しました。
この鉱泉水をイギリスに送り分析したところ、世界の名鉱泉と肩を並べる良質な食卓用ミネラルウォーターとの結果を得られました。そこでウィルキンソンは生国から最新の設備を取り寄せ、1890(明治23)年に「仁王印ウォーター」の名で販売を開始されました。
その後1904(明治37)年、仁王印ウォーターは「ウヰルキンソン タンサン」と名を変え、販売されるようになります。

 ここで豆知識!!発泡性の炭酸水は、海外では「ソーダ」と呼ばれています。これが日本で「タンサン」と呼ばれるのは、ウィルキンソンの商標が一般化したものなのです。
「タンサン」の名は、ウィルキンソンが当時の英国領事に相談して決めたといわれています。領事は神戸に長く駐在し、日本の習慣にも明るかった人物です。タンサンというネーミングは広く親しまれるようになり、いつの間にか一般名詞のように使われるようなったそうです。


 昔のデザインをよく見てみることで当時の文化が分かったり、ウィルキンソンようにローカルな商品がメジャーとなって世界で販売されていることにすごく驚きました。

引用文献
石戸信也(2008)『神戸レトロコレクションの旅 デザインに見るモダン神戸』神戸新聞総合出版センター



取材:堀尾楓