2016年12月30日金曜日

神戸港、いまむかし(2016/12/30)


神戸市役所展望ロビー(神戸市役所1号館24F)から山側を眺める


ローマも神戸も1日にしてならず。みなと神戸の歴史は平清盛の時代からはじまり、開港した150年まえからも、いろんな出来事をへて今の神戸になったのだ。神戸の歴史的なできごとといえば、第二次世界大戦における空襲や、近年では、阪神淡路大震災が記憶に新しい。そういう出来事に隠れた神戸の歴史を取り上げてみた。

村だった神戸


 今から150年前。今、神戸港の中心となっているメリケン波止場あたりは神戸村とよばれる村だった。その西側に位置する兵庫港は、平清盛の時代から港として栄えていた。神戸港誕生とともに国際貿易が盛んになり港が発展する中、「神戸港」という名称が定着。フラワーロードの南端から和田岬までの港全体が神戸港と呼ばれるようになった。

付け替えられたふたつの川

神戸の中心地にある湊川と生田川は、新湊川・新生田川と呼ばれることがある。なぜ「新」なのか。それはふたつの川が付け替えられたことに由来する。つまり別のところを流れていたものを工事をおこなってわざわざ別のところに流れるようにしたのである。
 もともと兵庫区を流れていた湊川は1901年現在の長田区に、そして、フラワーロードの場所に流れていた生田川は1871年、西側の新神戸駅から南に流れる現在の場所へ付け替えられた。
もともと神戸の街中を流れていたふたつの川がなぜ付け替えられたのだろうか。
 湊川も生田川も、砂礫の堆積により川底が周辺の平面地よりも高くなった天井川(てんじょうがわ)であった。通常の川であれば橋をかけさえすれば行き来はできるが、天井川は簡単ではない。また、天井川であることによって、度重なる水害がもたらされたのだ。
 このように川の付け替えは、神戸の発展に必要不可欠であったが、付け替え先の住民は土地が取り上げられると反発し、地下水脈の断絶を恐れる農民の抵抗にもあいながらも、なんとか川は付け替えられ、現在の神戸の街の姿になったのだ。

コンテナが変えた港の風情

神戸港に現存する最古の信号所建造物である旧神戸港信号所[高浜岸壁南端]


昭和30~40年の神戸港は、港は働く人であふれ活気があふれていた。
ところが、昭和40年以降になると、コンテナ船が登場し、港のあり方が大きく変化した。とは鉄道やトラック、専用の船や飛行機での貨物輸送に用いる軽金属製の大型の箱であるコンテナを専用に扱う貨物船のことだ。コンテナ運送が登場したことによって、雑貨などの貨物を個々に荷造りする必要がなくなり、貨物を積んだり降ろしたりする荷役という仕事が激減。沖荷役は減り艀も姿を消していった。荷役形態が変わったことによってコンテナ船は夜遅くに入港し、翌朝早くに港を出港するようになった。
 コンテナ船が登場する前、荷物の上げ下ろしは人海戦術だ。それが終わるまで数日はかかったのだろう。その間、船乗りたちを相手に商売する「外国人バー」と呼ばれるお店で港界隈で賑わっていた。そういう賑わいはコンテナ運輸が一般化するなかで廃れていった。
 今年は神戸港開港150年ということで、旧居留地が賑やかだ。しかし、この界隈の歴史を紐解いてみれば、神戸港の西側の兵庫港は古くから貿易港として栄えた歴史があり、また、戦後から高度経済成長期にかかろうとするころの神戸港の雰囲気は、どちらかといえば人気のない今の港の雰囲気とはいささか異なったものであったようだ。

取材:山下幸希